昭和43年8月30日朝の御理解 唯今より昭和43年8月30日朝の御理解を頂きます。
X御理解第88節 昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。
これは嫁入り前の娘さんにくださった御理解だと思いますね。悪い顔を人に見せぬようにしてと又は家を治めよと言うことは、これは嫁入り前の娘の事だけではない。これは全部がそう思わせてもらい、又心がけさせてもらわなならんところと思うですね。でないと家も治まらないし世の中も治まりません。私共はお教えと言う鏡を何時も頂いているのでございますから、お教えの鏡を前に立ててのそれは辛い苦しい又は悲しいと言うときもあろうけれどもそれを人にそういう顔を見せんですむようなおかげを頂いたら、明るい社会が朗らかな家庭が治められ世界を作っていけると思いますね。そこでこれは苦しいから苦しい顔を見せてはならんと言うてただにこやかに作った笑いをしようとか、作った苦しくなさそうな表情をしておると言うだけでは人には通じませんし、ましてやごまかすことが出来るかもしれません。けれども、神様をごまかすことは出来ませんからね。ですから、いうなら辛い苦しいと言うような事でも心の中にお教えの鏡を立てる事によってです。いわゆる心のスピ-ドアップですよね。これは苦しいとか、悲しいとか言う段階ではない。かえってこれはお礼を申し上げねばならないことであったと言うように本当に心がそういうふうに切り替えらたならね。自ずとやはり心はそのまま表に現れてくる。体にも現れてくる態度にも現れてくる。そういうおかげをいただきたいですね。これは、嫁入り前の娘に対する御理解でしょうけれども、その中から、私共は嫁入り前の娘だけじゃあない信奉者、信心させて頂くもの全部がそういう、例えばおかげを頂きたい。いやなもんですよね。家の中に一人ブ-としたり、横着な態度をしとったり、いろいろな会合なんかにでますともうそれですばらしいことになっていきそうな雰囲気まで壊してしまうんですよね。冷たい表情をしておったり、本当にお互いがもうこれは一人一人が心がけさしてもらわなならん。けれども、それは一人一人というわけにはいかんから、とにかく信心頂いておる。私たち一人一人が、その気にならせていただかなければ、これは例えば、御本部参拝させて頂きますと三代金光様のお取り次ぎを頂くときに感じさせて頂きますね。もう本当にある時はにこやかにお取り次ぎくださるかと思うとある時には、もう厳しい厳しい御表情でお取り次ぎなさいます。そげん、腹かいたような顔しなさらんと思うけれども、それがですね。もうそれこそこちらの心を改まさせにゃおかん。清めさせにゃあおかん。そういうものをあの厳しい御表情から私共は感じ取らしていただきましたですね。もう無言、何もおっしゃらないけれども、その無言の中に御理解を感じました。ですから、私共は例えば、厳しい、例えば、表情をしておるときには、私のここなる御信者の皆さんがそれこそ、引き締まって今日は油断ができんぞ。自分の心の中にこういうものがあったら、もう先生は見通し、本当に改まらなければ、というような者を私が皆さんに感じて貰え、与えられるようなものを私は何時もにこやかでなくてもですね。そういうようなあたえられる内容を頂きたいとおもうですね。人間の顔も何時もにこやかなばっかりはでけません。お父さんがいうならば、機嫌の悪い顔をしておられる。それで家族が家族中のものがちゃんとすると言ったようなものがここにはそれ以外の言わば、雰囲気と言ったようなものがただ酔わないといおうかね。出来ないような内容を頂きたい。家の親父はいつもかつもそれこそ世界中の苦虫をおれ一人でかみ潰しとると言うような顔をしてからといわば、子供からでも家内からでも言われ、思われるような事ではいけません。何時もかつもグ-とした親をしとる。何時も貧相なみとったら、こっちの方が滅入ってしまうと言うようなことであってはならない。結局は私は内容の問題だと思うんですね。そこで私はここんところをですね。例えば、ならここでは辛い苦しい悲しいと言うときに人に悪い顔を見せぬようにという、それは日頃頂いておる教えの鏡を立てさせて頂いておかげを頂いて行きたい。もう一つあります。ここでは、辛いも苦しいもないときにですね。いうならば、人を軽うみると言う心、人を軽う見ると横柄な態度やら表情やら頂きます。それこそ、鼻の先であしらった様な態度をとります。これはいよいよ鼻もちなりませんですよね。顔色を見る。相手重く見たり、軽う見たりする。この人は自分の便利になる人だとか、ここではよい顔見せてとか、にゃあ、自分が横をすると行ったようなときには、もうそれこそ嫌らしいまでにおべっか的な表情やら、態度やらをとる。自分より、弱い者とでもいおうか、便利にならないと行ったような人たちにはそれこそもうつっけんどんな態度をとったり、表情を現わしたりする。これではね、おかげは受けられん。自分の心の中に辛い苦しい悲しいと言うときに現れる所の表情、それでも決して悲しいとか苦しいとか言う顔をみせるなとおっしゃる。それではなくてです。もっと私はそれよりも悪いのは心には辛いやら、苦しいやらはないけれどもです。相手の人次第で変な顔をしたり、にこやかになったりする顔、いわゆるこれこそ、教えの鏡を前に立てなければならないと言うことである。昨日、桂先生とお嬢様とご一緒にここへおいでになられました。応接間でお*を差し上げましたが、豊美がお茶の接待を致しました。もう私は娘ながら、惚れ惚れ致しました。もうそのお茶を習わして頂いておりますから、お茶の作法通りにやるわけなんです。気持ちの上で、九州で一番偉い先生だと思うておりますから、実に慇懃ににこやかにですね。私は豊美にこの事を今日言うてやらなきゃあならない。もう誰に接するでも桂先生に接するごたる気持ちであんたたちが進むならば、もうそれこそあんたはどげんところでんもらわれるばいと私が一番つまらない。私である。皆が桂先生にみえるようなおかげを頂かなならんと言うことなんですね。だから、そんなに偉いひとばかり、世の中にござらんからです。本当に自分自身と言うものを見極めさして頂いてこういう態度、こういう表情が出来る私じゃあないと言うことね。ですから、私の周囲の全ての人がです。言うならば、桂先生に見えるような私と言うものを一つ頂かにゃあならない。そこにはね、教えの鏡を立て通し前に立て通しの私はおかげを受けらると思うのですよ。同時にもう一つ昨日桂先生をお送りしてからすぐ私は善導寺にお参りしました。親教会の初代の30年祭の式年祭があります。それの委員会がございました。それであちらに参りましたから、いろいろ話も進みましてから、最後に記念品と言うことになった。何か初代が書き残されておるようなものの中から色紙か、短冊にでもなるようなものはないだろうかとたくさんのもの、お祝詞やら、色紙のようなものを出して頂いて見せて頂きました中にこういうようなお教えをひかえておられるのを見せて頂きました。その中にいくつあります。その中に一つでございます。「牛は牛ずれと言おうが神は神連れぞ」と牛は牛連れと言おうが神は神づれ。これは正しく神様から頂かれましたお教えだろうと思います。しかも先生の取り次ぎ者に対する所の神様のお教えだろうと思います。牛は牛連れと言うことはまあ、信者は信者連れでいいのだ。けれども、取り次ぎをさせて頂くものはもう金光大神にならなきゃあならん。神様付き合いが出来る様にならなきゃあ本当のお取り次ぎは出来んぞ。こう厳しゅうまあ、教えておられることであると私は思いますね。お取り次ぎをさせて頂く先生がです。いわゆる信者並の様な事でどうするか。信者にも劣るような事ではでけんぞと牛は牛連れでよい。けれども、神は神連れぞといわゆる神様はつきあいが出来る様にならにゃあいけん。そこで私は確かにそうであろうけれども、私はそこんところは牛は牛連れというのは信心のないものは信心のないもの連れである。信心のないものは信心のないものでいいわけである。けれども、信心を頂いておるものは、信心を頂いておるものの連れでなけりゃあならないと言うことなんです。そこで私は何時もです。私は何時もお道の信奉者でありますと言うことなんだ。私は何時もお道の信者でありますという。いうならば、ここにバッチの一つもつけておるような気持ちが必要なんだ。そげな事では信心のないもんも同じことじゃあなかねと言われたり、思われたりするようなことでは、私はおかげは受けられんと思う。信心のないものでも例えば、しないような事を言わないような事を平気でしたり、言うたりしとるようなら、信奉者があるとするならば、これは信者の風上にもおけない。私共は金光様の御信心を頂いております。私は合楽の信者でございますという。私は自覚に立っておきませんと今日の私は分かって頂こうとしておるところが分からないと思うのです。というて、信心頂いておるから、何時も何時もありがたそうな顔ばかりは出来ませんに致しましてもその内容がすばらしい。その内容が信心である。だから、それは、厳しい顔をしておってもその厳しいもんかを相手に何かを教えずにおかん。相手に何かをよいものを伝えずにはおかんと言ったようなものがその雰囲気から生まれて位の私はおかげを頂きたい。同時に辛い苦しい悲しいをそのまま人に見せるようなことであっちゃあならない。それがそんなら、我慢我力のそれであってはならない。日頃お教えの鏡と言うものを立ってからのものでなからなければならない。真を表に現わしてとこう言う如何に自分の心の中に真そのものがなからなければ、真が表に現れてこない。商売人がお客さんに只売らん、買わんの為ににこやかにしとるなんて、本当のことには言えれん。それは相手に通じるかもしれませんが、けれども神様に通じませんから、それが商売繁盛の元にはならん。心からお客さん、心からこのお客さんあって門が立つと言うような感情の心心持ちがあると相手の人にも通うだろうけれども、神様に通うからそれが商売繁盛の元になのです。だから、作り笑いじゃあ如何ということになる。同時に今申します私共がいよいよ自分と言う春を見極めさせて頂きまして全ての人が言うなら、桂先生に見えるようなおかげを頂きたい。今日は皆さんそ今ところぎりぎり一つ徹底して講じて頂きたいと思う。次々我がお道の信奉者である自覚に立って牛連れじゃあいかん。神は神連れでなからなればならないように我信奉物である。お道の信者である、とりわけ我合楽の信心を頂いておる。私共で言う。私は自覚を何時も頂かして頂いて日々の御用がなされて行くときにです。これは顔色だけじゃあありますまい。体全体から出てくる雰囲気、体全体が真の現れというようなです。私は態度がいわゆるそういう本当、真心と言うか真のごんげの様な私共を目指して信心の稽古をさして頂かないといけんとおもいますね。どうぞ。